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(1)黎明期の食肉加工業 |
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明治初年 |
長崎県西彼杵郡浦上山里村の松本辰五郎が某中国人より製法を習得。 長崎市小島の中村健吉の祖が、通訳の斡旋でオランダ人について製法を研究。 |
明治5年 |
長崎市大浦の片岡伊右ェ門が長崎に来遊したアメリカ人のペンスンから骨付 きハムの製法を伝授され、工場を建設して製造を開始し、製法を第1回内国 勧業博覧会に出品。 |
明治6年 |
札幌養豚場で北海道開拓使庁が官営工場でハムを試作。 |
明治7年秋 |
イギリス人ウィリアム・カーティスがホテルを営むかたわら、牛、豚を飼養 しハム・ベーコンを製造して横浜在留の外国人に売り利益を得る。カーティ スの造った製品は品質も良く安価であったことから需要が増加。後に益田直 蔵と斎藤万平が製法を会得し研究に努め『鎌倉ハム』が誕生。 |
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◆その後日露戦争の好況にのり会社組織による2、3の工場が建設されましたが、時機尚早であまり発展しませんでした。明治終わりの生産量は400〜600トン程度で、生産の90%を神奈川県が占めていました。 |
明治7年 |
日本で初めて製造した当時の模様は、古文書で見てみると、原料は相州産、 又は千葉県下の豚モモ肉が使われていたようで、その製造方法は「豚腿肉をもって、塩、砂糖、等を 配合、煮たる後冷却したる水で漬込み、その期間は12月より翌年2月までこれをなし、その後30〜 50日経過して、日光で乾かし、おがくずにて燻らす法とする」と記されています。 |
(2)大正時代の食肉加工業 |
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大正3年 |
大木市蔵がドイツ人マーチンヘルツからドイツ式食肉加工技術を学び、第1 回神奈川畜産共進会に参考品としてソーセージ数種を出品し、日本人として 最初のハム・ソーセージ専門店を東京銀座に開く。 |
大正7年 |
第一次世界大戦中にドイツ人捕虜カール・ヤーンから畜産試験場の飯田吉英 技師がドイツ式ソーセージの製法を聞き、公開する。 |
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◆このほかオットー・ローマイヤー、カールレイモン、ヘルマンウォルシュケなどの外国人が食 肉加工業を始めたり、食肉加工技術を日本人に伝授しました。大正時代の末期の生産量は、年間 2,000トンを超えるに至りました。 |
(3)終戦までの食肉加工業 |
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昭和初期 |
恐慌により食肉加工品の生産一時停滞しましたが、満州事変後の軍需景気に より食肉加工品の生産が増加する。しかし、その後、日華事変の長期化や、 第2次世界大戦の勃発により生産量は減少。 |
昭和19年8月 |
企業整備要綱により全国の食肉加工工場が228工場から74工場まで1/4に 圧縮される。 |
昭和9年 |
セロファンウインナーの開発(伊藤ハム) |
(4)終戦時の食肉加工業 |
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終戦時 |
操業工場45、生産量年間750トンまで減少 |
昭和20年12月 |
食豚肉配給統制規制の廃止。 豚の飼養頭数は戦前の8%に激減し、その他の原料も乏しく十分な生産は行 えない。 |
昭和25年以降 |
豚の生産の回復及び馬肉、 家兎肉を原料とする安価なプレスハムが製造され庶 民の食生活に次第に浸透する。 |
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◆肉豚の生産過剰などの有利な条件もあり毎年生産量も20%を上回る伸びを見せ、戦後の成 長産業となりました |
(5)躍進期の食肉加工業 |
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昭和35年以降 |
高度経済成長期に入り、食生活の洋風化および冷蔵庫の普及により食肉並び に食肉加工品の需要の著しく増大する。 |
昭和36年 |
豚肉の価格安定制度の導入。 |
昭和37年 |
食肉加工品に対するJAS規格の制定。 |
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◆従来の経験的技術から理論を基調とした技術を先進国から指導を受けたり、海外の食肉加工事 情視察のため調査団を派遣したりしました。又中堅の上位企業がローカルメーカーを脱し、設備 の合理化、生産性の向上のため、加工機械や設備を海外から輸入し、技術的にも発展しました。 生産量も昭和30年の年間27千トンから昭和40年には5倍の130千トンとなりました。 |
(6)安定成長期の食肉加工業 |
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昭和40年代 |
毎年約10%の順調な増加で推移。 |
昭和46年 |
主原料である豚肉の輸入自由化。 |
昭和48年 |
年間28万トンの生産量となり昭和40年の約2倍の生産量となる。 |
(7)低成長時代の食肉加工業 |
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昭和49年 |
第1次オイルショックのあおりを受け、前年を下回る。 |
昭和50年以降 |
食肉加工品の生産、消費も回復し再度10%近い伸びを示す。 |
昭和54年以降 |
第2次オイルショックにより1〜2%の伸びにとどまる。 |
昭和58年頃 |
品質の向上や新製品の開発より生産の回復。 |
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◆その後成長を続け、現在に至ります。 |